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先祖が醸造していた酒

先祖が醸造していた酒

我が家は代々酒造業を営んでいました。1778(天明8)年創業。
戦時下の1942(昭和17)年に国の方針で業界再編が行われ、幕を閉じています。この酒樽を見るとなんとも言えない感慨を覚えます。銘柄名は「いけづき」。

地獄で鬼が驚いた

地獄で鬼が驚いた

大相撲史上一番の巨漢力士(227cm)と言われている生月鯨太左衛門は我が家(造り酒屋)で働いていました。幼少期のエピソードや平戸藩のお抱え力士として召される頃のことがこの書籍(歴史小説)に書かれていますが、そこにご先祖様が登場しています。

高曾祖父 近藤猶吉 サタ 夫妻

高曾祖父 近藤猶吉 サタ 夫妻

近藤家九代 近藤猶吉 サタの肖像画です。
江戸期から隆盛を極めた益冨捕鯨が衰退し廃業(明治9年)するときの最後の大別当でした。波乱の人生だったと思いますが、長兄である曾祖父、その下に松屋回漕店に嫁いだ娘、田助の永山家へ婿養子に入った息子、生月町教育長、裁判官、内閣統計局部長に嫁いだ娘、最高裁裁判官などを育てています。

曾祖父 近藤平重

曾祖父 近藤平重

近藤家は代々益冨組の大別当として西日本最大の捕鯨組織を取り仕切ってきた家柄でしたが、高曾祖父 猶吉の代(明治初期)に鯨の回遊が激減し、ついに200年を誇った益冨組が捕鯨から撤退しました。
曾祖父 平重は9人きょうだいの長兄として家業の酒造業とともにまき網漁船団「白鳳丸(はくおうまる)」船団を組織し、同時に舘浦漁業協同組合組合長に就任しました。そしてその後の漁船大型化を見据えて漁港の大規模改修を行い多くのまき網業参入者が生まれ、捕鯨衰退後の生月島の産業復興に大きく貢献しています。

しかし白鳳丸船団は流れを見届けて3年で黒字解散…「なぜすぐにやめたのか?」…親戚が集まると話題はそこになりますが、「やってみせた」説が有望です笑。謎は残ります。
まき網漁業は戦後大きく成長し、国会議員を輩出するまで勢いを増しました。

島の基幹産業「捕鯨」の次の「まき網」への大事なつなぎ役を見事に果たした曾祖父だったと理解しています。私も誇りです。私が小5の時、93歳で亡くなりましたが、子ども心に偉大なオーラを感じて近寄りがたい雰囲気だけ覚えています。

尊敬する祖父と

尊敬する祖父と

祖父(近藤儀左エ門)とのツーショット
祖父は京都府立医大を卒業後、軍医として従軍。戦後は静岡県浜松市の開業医のもとで勤務医をしていましたが、ふるさと生月に帰省した折に多くの島民を診察したことをきっかけにUターンし、近藤医院を開業。92歳まで診療を続けました。その間、生月町議会議長、生月町長を歴任しました。
私にとっては優しくて絵と書を教えてくれて、出張のたびにエクレアをお土産に買ってきてくれる大好きなおじいちゃんでした。

趣味はカレー作り

趣味はカレー作り

 私のカレー好きは地元ではずいぶん知られているようでして…よく聞かれる質問に…「いつからカレー作りをやっているんですか?」というのがあります。

 私の答えはこうです…
 「生月に戻ってきて、漁業者が獲った魚を持ってきてくれたり、野菜を育てている人が手作りの(泥の付いた)野菜を持ってきてくれたりしてくれるのがとてもカッコよくて、自分もなんかオリジナルのもので人を感動させたい、って思いが強くなり…じゃ好きなカレー作りをもっと学ぼうって思ったのが約10年前でした」と説明しています。
 年に数回、イベントで出店していますので「まぼろしのカレー」という設定で勝手に広めていますw

となりのみっこちゃんのお誕生会

となりのみっこちゃんのお誕生会

幼稚園時代、隣家に住むみっこちゃんのお誕生会がありました。
左から私の姉、私、みっこちゃん、向こうとなりのお姉ちゃん♬

お宝水着写真

お宝水着写真

M字ですね~笑

高校時代はラガー(へなちょこ)でした

高校時代はラガー(へなちょこ)でした

佐世保西高校ラグビー部に所属し、右ウイングTB(14番)でプレースキック担当でした。戦績は聞かないでください(笑)